山城探索

ネットにあまり情報のない山城について補足します

猿丸城(長野県長野市戸隠猿丸)

猿丸太夫の伝説地で、途中に焼き場の跡や墳墓らしき物もあり興味深い土地ですが、城跡までのルートが分かりにくく、危険なところもあり、遺構もあまり残っていないので、訪問はお薦めしません。

まず、iPhoneアプリのGeographica(https://geographica.biz/)で記録したトラックを示します。

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511213839p:plain

 

神社の東に付いているコンクリート舗装の道から入っていきます。

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511214418j:plain

しばらく道なりに進みます。

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511214629j:plain

沿道に畑や畑の跡が続きます。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511214905j:plain

途中から草木が生い茂っていますが、これでもまだコンクリート舗装が続いています。このあたりから左にカーブして、

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511215118j:plain

近くから水が湧いている場所があり、このあたりから地面はぐちゃぐちゃです。草木の茂り方もどんどん激しくなりますが、道なりに進みます。すると、

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511215606j:plain

開けた平坦な場所に出ますが、正面は尾根の斜面でふさがれています。ここで写真手前の左端から下に降りていきます。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511215853j:plain

写真ではわかりにくいのですが、真ん中あたりを降りていくと奥の方に道が続いています。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511220027j:plain

クマザサに行く手をはばまれますが、奥に見える倒木のほうへ道が続いているので、かき分けて前進します。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511220300j:plain

これが先ほど奥に見えていた倒木です。もう少し進みます。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511220518j:plain

 少し開けた場所に出ました。次は右手(おおむね南)の斜面をどこでもいいので登ります。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511220737j:plain

写真奥に向かってとてもゆるやかに登っている、ほぼ平坦な場所に出ます。奥に大きな尾根が見えるので、そちらへ向かいます。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511221438j:plain

ここは、この斜面を登って尾根筋に出るか、左からトラバースしていくか、選ぶ場面です。今回はトラバースしましたが、少し大変でもここを登った方が安全だと思います。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511221727j:plain

これがトラバースするルート。かすかに道が付いているように見えますが、見るからに危険ですね。帰り道では少し滑って落ちそうになり、焦りました。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511222057j:plain

トラバースを終えて、このあたりが尾根筋。斜面はゆるやかです。左手(東)のほうへ降りていくと、

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511222334j:plain

木々がまばらになっていきます。さらに進むと、

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511222558j:plain

突然、広々とした、不思議な空間が広がります。ここが城跡か、と思ってしまうところですが、宮坂武男『信濃の山城と館 第2巻 更埴・長野編』(戎光祥出版)によると、ここは焼き場と耕作地であったとのこと。宮坂先生も最初はここを城跡だと思っていたそう。

南を向いて撮影しているこの写真の真ん中より少し上、少し左側に、 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511223138j:plain

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511223445j:plain

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511223622j:plain

石組みと石像があります。前掲書によると観音像とのことですが、私には判別がつきません。左右に刻まれている文字は「文政壬午年 八月」でしょうか。

 

さて、目指している城郭は焼き場跡から東方に見える尾根の上にあります。

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511233114j:plain

適当に登っていくと、

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511233908j:plain

腰郭にも見える削平地らしきものがあり、その先に、

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511234106j:plain

郭が二つあります。信濃の山城と館』では手前を6、奥を5とナンバリングしています。この郭に登って尾根筋を進みます。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511234412j:plain

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511234519j:plain

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511234702j:plain

こういう細い土橋を怖い思いをしながら嫌になるほど歩いて(といっても100メートルもないと思いますが)、少し斜面を登ると、

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511234900j:plain

主郭と思われる広めの平地が現れます。特に遺構らしきものは見当たりません。

この先、道は二つに分かれ、右を選ぶともう一度、土橋を渡り、

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511235413j:plain

小さな郭があり(信濃の山城と館』で4とナンバリングされている郭)、この先に、

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511235706j:plain

小さな腰郭らしきものを2段ほど見つけました。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190512000046j:plain

樹間からは荻久保の集落が見えます。

主郭から左の道を行くと2、3の郭があるのですが、今回は遠くから眺めるだけで引き返しました。 

報告は以上です。

 

以下、おまけ。

焼き場跡にはもう一つ気になるものがありまして、

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511225316j:plain

石像の正面方向にある土を盛ったような地形です。このブログの他におそらく唯一、猿丸城についてとりあげているブログの記事(「山城めぐり」https://blog.goo.ne.jp/tomiokamusasi/e/9b2ccdf47b4ba87aedd74ec195bc0024)では、「古代墳墓遺跡ではないでしょうか」と指摘されています。

少しネットを検索してみると、昭和12年に出版された藤井尚治『国史異論奇説新学説考』(日本書荘)という本の「猿丸太夫道鏡か」という章に、

長野県上水内郡戸隠村大字豊岡字猿丸区と云う処にも猿丸太夫の遺跡があり、墳墓がある。(中略)更に其突出した三方懸崖の突場を猿丸城と呼んで居り、今でも本丸趾もあれば、茶屋池も残って居おり、蔵屋敷の名残もあれば、また殿屋敷、家老屋敷などの小名も、その突端部にそれぞれ残って居る。そして土地の人は、これも猿丸様の城だと云って居る。

国史異論奇説新学説考 - Google ブックス

 と述べられています。

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190511232619j:plain

これが猿丸太夫の墳墓と言われていたものなのでしょうか。

 城跡の近くに古墳があるのは珍しいことではありませんが。

ちなみに、宮坂先生も参照している『長野縣町村誌』( 昭和11年、長野県)には

【猿丸太夫宅跡】東西十間、南北二十間、村の巳午の方字猿丸城にあり。往事正徳の頃迄は残礎尚存せしを、追々開拓し方今は畑地となる。亦瓢形の石あり、長一尺六寸、囲大なる所二尺八寸五分、細き所一尺五寸五分、頭の方損したり。此石猿丸太夫所愛の石なりと言伝ふ。今諏訪社の椽の下に秘め置けり。

との記述があります。

 

f:id:yamajiro_fukuroneko:20190512000503j:plain

人里に近い方の林の中でイノシシのものとおぼしきフンを見つけました。